家内の糖尿病は眼を蝕みはじめた。私の顔をもう二度と見る事は出来ないのだと思うと哀れでならない。

泣き笑い認知症奮戦記

令和2年8月に入り家内の認知症が急激に悪化し、驚くとともに私の負担が倍増した。
介護では、着替え、食事の補助、薬の管理、入浴の補助、トイレの補助等片時も目が離せない。
一番困ってるのは眼がよく見えず、歩行が困難であることだ。そして、 少し家内から離れると「お父さん、お父さん」と呼ぶのである。これには困った! 家にいるときはほとんど私のプライベートの時間はないに等しい。家内が正気の時、「お父さんに迷惑かけてごめんなさい」という言葉を聞くと胸が熱くなる。 はなぶさ苑のショートステイにお願いするようになって私の負担は軽減されたが、施設の皆さんにはご迷惑をかけている。
10月24日に家内の状態が悪化し、埼玉慈恵病院へ入院、肺炎の悪化であった。 その際、診療に付き添っていただいたはなぶさ苑さんの介護福祉士kさんの仕事ぶりには頭が下がる。感謝、感謝である。。
11月30日埼玉慈恵病院を退院したが、そのままあねとす病院へ転院となった。現状は肺に水が溜まって半分しか機能していないらしい。また下血してることについては消化器官の何処かで出血している、予断を許す状態ではないことを知らされた。
そして12月8日午後8時59分帰らぬ人となってしまった。

症状
1.起き上がることも歩くこともまったくできない
2.食欲が全くない。
3.コミニケーションができない。
4.眼が見えなくなりつつある。
5.怒りっぽい。
6.昼と夜がひっくり返っている。
7.常にうつらうつらしてる。
8.介護施設へお願いすることが難しくなった。


12月1日(火)
時の流れとは早いもので師走になってしまった。今年は本当の目まぐるしい年であった。家内の認知症の状態の変化に驚いた年でもあった。しかし、前向きに生きていこうと思っているが果たして実行できるか心もとない。

12月2日(水)
相変わらず、寝られずにいる。寝よう寝ようと思うのだが、いろいろなことを思い出して、ますます目がさえてしまう。運動不足が不眠の原因のような気がして、先日購入した自転車マシーンの運動もしているが、今日は6,560歩歩いた。
今、秩父夜祭だが新型コロナウイルス感染症の影響でやってるのだろうか?

12月3日(木)
2日間あまり寝られなかった反動で昨夜は6時間半爆睡した。早朝から頭すっきりなり。

12月4日(金)
昨夜、秩父夜祭の花火の音が我が家まで届いた。昔は何十万人もの人が押し寄せたが、今はどうなのだろうか?
今朝起きたら、強烈な腰痛、座っていても立っていても痛くてたまらぬが、埼玉りそな銀行熊谷支店へ定期預金を解約し普通預金への付け替えを行った。これで熊谷支店まで出向くことはなくなった。
午後、くろや整形外科に行って腰を見てもらったが、骨には異状なし、わきの筋肉を傷めたので電気治療をしていただく、そして、3年間お世話になった家内の状況をお話ししてお礼を言う。
また介護施設「ゆず」さんへ家内の介護費用10月分を支払いに行き、所長さんにに家内の状況を話しお礼を言う。

12月5日(土)
昨日、午後くろや整形外科に手当てして戴いたら、嘘のように痛みが引けた。ありがたいことだ!
最近、深谷市の新型コロナウイルスの感染拡大が凄まじい。必要以外の外出はやめて対応しよう。持病を持ってる私に感染したらひとたまりもなくあの世行きだろう。
まだまだ、やりたいことがいいっぱいあるので死ぬわけにはゆかぬ、キャンピングカーを買って日本中を流離いの旅もやってみたい。
午後、あねとす病院より電話あり、家内の様子が異常なので来てほしいと連絡あり、3時30分に出向く、家内はかなり呼吸が苦しいらしく顔をゆがめていた。「よく頑張ったね、お父さんが来たよ!」と声をかけ手と頭をさすってあげた。分かったらしく声で答えたが、何を言ってるのかは分からなかった。先生のお話では今日か明日が峠でしょうとのことであった。
大宮の長男の家族にも連絡いただき家族全員がきてくれた。新型コロナの関係で面会二人までと言うことで彩花と長男が家内と会い、ほかの子供たちはLINEVIDEOで家内に話しかけた。家内もわかった様子であった。
ひとまず、家に帰りまた出直すこととした。

12月6日(日)
あねとす病院から連絡もなく夜が明けた。家内は苦しい呼吸の中で戦っているかと思うと涙が出てくる。認知症で覚えられず冷蔵庫や窓際に張り付けた家内のメモを見てまた涙である。
一日長男が我が家に待機して病院からの連絡を待っていたが、連絡なく夕方返って行った。
前日、孫たちに会って元気が出たのかもしれない。苦しい中、家内も頑張っている。私も頑張らなくてはと思う。

12月7日(月)
今まで5年間も食事を作ってきたが、一人になって廃棄する量が多く困っていた。その為、食事を提供してくれる会社はないかと調べていたら、セブンイレブンで毎日バラエティに富んだお弁当を販売してることを知り申し込んだ。これで食事を作る必要もなくなり、ほっとしている。
これで朝食はトースト、昼食はインスタントラーメン、夕食はお弁当と確定した。
今日は我孫子から長女が家内に会いに来た。しかし、コロナ騒動で面会謝絶、病院の相談室Kさんに頼み込んだ。「今会わなければ2度と会えないような気がする」と告げた。
おかげさまで長女の面会が許された。私も家内にあって土曜日の時より状態がよいように見えた。声をかけるとわかったように手を差し出してきた。「頑張ったね!お父さんだよ、弘美も千葉から来てくれたよ!」と声をかけてあげた。何か言いたそうに口を動かしていたが言葉にならなかった。

12月8日(火)
今日は自分の通院。かかりつけ医に薬をもらう。先月、血液検査していただいた結果が判明した。

やはり血糖値が高い。いろいろな事が起きて食事も不規則になっていたことが要因だろう。
83年間も使ってきた身体はもうボロボロ、だましだまし使うしかない、歩行時の足も自分の足でないように感じてる。
午後、あえとす病院より電話あり、家内の様子がよくないのですぐに来てほしいとのことで駆けつける。呼吸はかなり苦しそうで見ていられない状態であった。しかし、小康状態が続きまた出直すこととした。
晩酌をして、食事をすませ、一段落してテレビを見ていると、再び電話。様態が急変したから来てほしいとのこと、酒を飲んでしまったのでタクシーで行くことにしてタクシー会社に電話するも数社で断られる。しかし、酒を飲んだために妻の死に目に会えないなんて夫として失格、もう免許を失ってもいいと酒気帯び運転で行くことにした。7時10分頃病院につく、そして1時間50分心電図を見ながら家内をさすってあげた。午後8時59分、心電図の波が消えた。
7年間に亘る私の認知症との戦いが終わった瞬間であった。
家内が午後11時56分、我が家に無言の帰宅となった。

12月9日(水)
目まぐるしい日が始まった。葬儀の準備である。すべてJA葬祭にお任せすることにした。
家内の数十年来のお友達Kさんから素晴らしいお花を送っていただき家内も喜んでいるだろう。

また、ほかの友達Hさんからも電話いただき、電話の向こうで泣いておられる様子が電話機を通じて聞こえた。家内は素晴らしい友達に囲まれて人生を過ごした来たのだと改めて認識した。
新型コロナウイルスの感染予防対策として家族葬にした。コロナが収まったらその時点でお別れ会を行うと話し、関係者の皆さんに了解を頂いた。

12月10日(木)
JA葬祭さんがドライアイスを交換、葬儀の最終調整に見えた。あとは14日の葬儀を待つのみとなった。
毎日、家内に話しかけている、朝起きて「おはよう」、と線香をあげ。夕食時は「飯食ってくるからな」、そしてウイスキーの晩酌、その後一日の報告をする。あと数日で家内の個体としての存在が消却によって失われる寂しさは誰にもわからないだろう。いつかは通らなければならぬ道だけれど連合いとしてはあまりにも過酷な試練である。

12月11日(金)
今日午後2時、家内の納棺の日、子供たちや孫たちと優しく納棺してあげよう。
「長い間ありがとう、この思い出は誰も忘れないよ!」と声をかけてあげた。

手甲脚絆の旅支度である。長い道のりだけれど、行きつく先には爺ちゃんや婆ちゃんが待ってるからよろしく言って下さい。

12月12日(土)
朝が明けた、また長~い一日が始まる。
先日、私の兄弟が集まった時に、これからの一人暮らしについてのいろいろな意見を頂いた。自分ではあまり深刻に考えてはいなかったが、14日の葬儀が終わると本当に一人になってしまうので、考えざるを得ない時期に来てる。

12月13日(日)
純子という個体が今日一日で終わる。空気みたいな存在であったがなければ困る存在であった。

12月14日(月)
家内の葬儀の日、コロナウイルス感染症のため、子供たちと孫たちのみで家族葬として行うことにした。
家内の歩んだ道を私の記憶を思い起こしながら書いてみた。
家内は昭和16年9月30日台東区下谷で幸山家の長女としてまれました。

台東区坂本小学校を卒業し、千代田女学園中等部、高等部を終了、武蔵野女子短期大学英文科に入学、卒業しました。

そしてK株式会社に入社。家内は秘書課に所属し営業部長の秘書として勤務していました。その後社内恋愛で付き合うようになったのです。

そして昭和42年2月25日に結婚式を挙げたのでした。
そして、小金井市貫井南町で生活をスタートさせたのです。42年に長女、46年に長男を授かりました。その後祖父が体調を崩したのを機会に故郷にへ移ったのです。家事をする傍ら高橋書店の営業と仕入れを長年と務めてきましたが、書店閉店で退職。
その後は旅行が好きで日本中を回りました。

そして、手習いとしてピアノを習い始めたのです。

かれこれ25年くらい習ったのですが、覚えられないようになりやめざるを得ませんでした。
認知症が出始めたのが7年前くらいで、専門医に見てもらおうと言ったのですが本人が嫌だというので行くこともなりませんでした。3年前くらいから、食事の準備を私が担当するようになりました。我が家は冷蔵庫や窓やあらゆるところにメモが張り付けてあります。「お父さんに怒られるから言われたことを紙に書いておく」と言っていました。

(大好きな孫と2019年のお盆にて)
急速に認知症が悪化したのは今年に入ってでした。
まず、部屋の配置がわからなくなり、自分で立ち上がることが出来なくなりました。それに輪を開けて目が見えずらくなってきたのでした。トイレに行くにしても手を取って連れて行かないとわからない状態で、誘導していると日に日に力の入れ具合が変わっていくのがわかりました。
8月になると食事の量が激減したのです。9月10月はほとんど食事をとらず、流動食を飲ませていました。そして、姉が弟が妻の介護で大変で先に倒れてしまうと、はなぶさ苑の施設長さんとケアマネさんを我が家までよこしてくれたのです。そのおかげではなぶさ苑を使わせていただくようになりました。
その後、ショートステイでつないでいたのでしたが10月24日呼吸がおかしいとK介護福祉士さんが気づき、埼玉慈恵病院へ診療に行き、そのまま入院、肺炎の重症でした。
点滴で命をつないできましたが、肺に水がたまり機能が三分の一くらいになり酸素吸入を続けていました。そして、11月30日あねとす病院へ転院、12月8日午後8時59分に永眠しました。
53年間ありがとう!素晴らしい思い出をありがとう!



12月15日(火)
1人暮らしになって、一日中誰とも話さない日が多くなってきて気が滅入っていたが、
今日から孫たちとLINEで話始めた。こんな素晴らしいツールがあったとはスマホの向こうから私を励ましてくれる孫たちの顔を思い出しながら感謝である。
今まで知らなかった孫たちの心を感じ取ることが出来とてもハッピーな気持ちになっている。
満福寺に家内の48日の法要をお願いに上がった。令和3年1月23日(土)午前11時からと決定した。

12月16日(水)
家内の死亡で役所や健康保険等についての届け出の処理を今日から始めることとした。

12月17日(木)
毎日毎日、家内の介護が身に沁みついていつも3時ごろ目が覚める。
祭壇に向かって、お線香をあげながら家内に話しかけている。他人が見たは気がくるってると思われるかもしれないが、これが今の私です。
午前中、市役所に出向き、すべての手続きを終えた。残るは年金関係だが、熊谷年金事務所に電話で連絡し、家内の年金の支払い停止を行った。諸手続きは郵送とし、申請書類を送ってもらうことにした。
残るはゆうちょ銀行と武蔵野銀行の口座に関する手続きで、落ち着いたら始めようと思っている。

12月18日(金)
今日は予定なし。朝からパソコンに向かってホームページの更新、JA葬祭のNさんから「呆ける暇ありませんね」と言われて悦に入っている。単純な私。
家内が亡くなってから妙に涙もろくなった。83歳の人生においてこんなに泣いたのは初めてである。草葉の陰で家内が「ばかみたい!私が先に行くと言ってたじゃん。」と言ってるような気がする。

12月19日(土)
今日で家内が亡くなって12日たった。まだ、一人暮らしに慣れていないので、朝起きて何時も家内を起こしに行ってしまう。部屋に入ると家内の祭壇があって「あ~!亡くなったんだ」と気付く始末、認知症の初期が始まったらしい。
最近妙にグルメづいている、以前から食べたかった、馬刺し、ドジョウ、大間のマグロ、みな通販で買えるので少しづつ買って食している。それを食べながらスコッチをチビチビ飲み、孫たちとLINEをするのが私の最高の楽しみになっている。

12月20日(日)
師走の大掃除に長男一家が来てくれた。家内が亡くなって諸手続きが済んで、何もする気力がなく1ケ月以上掃除なんてやってないので、部屋中綿埃だらけである。孫たちがぞうきんをもって、ガラス窓を拭いていた。何よりもうれしいのは楽しい会話ができたことである。無味乾燥の一人暮らしに日が当った一日であった。

12月21日(月)
朝、パソコンルームが2℃、それでもディスクトップ機は30秒で立ち上がった。そして、ホームページアップ。
私の兄弟の家々に葬儀のお返しを届けて回った。久しぶりに上がり込んでお茶を頂き会話が弾んだ。皆言うのは「一人暮らしもいいが万一何かあったときは大変だからケアハウスにでも入った方がいい」と言うのだ。そんな話を聞いてそれもそうだなと思うようになりつつある。
午後になって家内の親しかった同級生の方々に東京の高島屋からささやかなお返しをお送りした。
今の世の中、便利になったものだ、自宅の応接間でパソコンを駆使して贈り物ができるのだから。。。

12月22日(火)
家内が亡くなって諸手続きが一段落、今年最後のホームページ勉強会だが、コロナウイルスに感染する場合もあるので参加しないことにした。

12月23日(水)
20日までセブンイレブンの日替わり弁当をインターネットで申し込み、近くの店舗で受け取っていたが、なぜか食べていて虚しく感じていて一時中止した。
自分で作ると作りすぎてしまうのでどうしたものかと思案中である。

12月24日(木)
クリスマスイブかあ~
若いころクリスマスイブの夜は、銀座へ繰り出し何かいいことがおきるのではないかとウキウキしたものだが、今はウキウキもワクワクもしなくなってしまった。
ましてや、喪中のクリスマスイブいいことがおきるはずもない。

12月25日(金)
今朝は珍しく6時50分に目が覚めた。いつも早く起きてしまうので、寝る時間を11時にしたためであろう。しかし、起きて挨拶をする相手がいない環境になって一寸戸惑っている。

12月26日(土)
今日は長男が様子を見に来るとLINEで送ってきた。会話の相手が出来そうである。そういえば、昨日は孫とLINEのビデオ電話で話しただけが由一の会話であった。
家内が他界してから孫たちが気を使ってくれて「爺ちゃん爺ちゃん」とLINEで励ましてくれて、会話のない日常を救ってくれている。

12月27日(日)
最近、私はつぶやき爺さんになってしまった。毎日、朝起きて家内につぶやくのです。きっと他人が見たら気がふれたのではないかと思わっれるでしょう。
今日のつぶやき。
「おはよう、今日も寒いぞ!そちらはどうだ!お母さんは歩くのが苦手だから大変だろう。頑張れ!道中頑張れば爺ちゃんや婆ちゃんに会えるのだからがんばれ!」
きっと頑張って三途の川を渡ってくれるでしょう。
心の整理がついたのか?孫たちとLINEのビデオ電話のおかげなのか?寝不足気味だったのがウソのようにぐっすり寝れるようになった。

12月28日(月)
家内が亡くなって三七日、お墓の花を変えてあげようと昨日購入した。暖かくなって10時ごろ行こう。
昨日買い物に行ったのだが、もうすっかりお正月の商品になって日常のおかずは撤去されていた。

12月29日(火)
2020年が今日を入れてあと3日となってしまった。今年は本当にすさまじい年であった。家内の1月の状況はそんなに悪化した状態ではなかったが、8月のお盆を超えたあたりから歩行困難となり厳しい介護となって行った。

12月30日(水)
年末年始の食材を購入しようと思ってる。昨日、孫とLINEのビデオ電話して「婆ちゃんの大好きだった栗きんとんを買って墓前に上げようと思う」と話していたら妙に涙腺が緩み声を出せなくなってしまった。まだまだ心の中では家内の死をあきらめきれていないようだ!
一度ビデオ電話を切って、心を静めて再度再開した。

12月31日(木)
泣いても笑っても2020年は今日で終わり。今年の前半は家内も少しは動けていたが、後半になってすさまじん介護となっていった。はなぶさ苑さんや、ゆずさんにお世話になって私の体力消耗を助けていたていただいた。10月からは入院生活、11月に入って肺炎が悪化、家内は帰らぬ人となってしまった。私にとっては家内の死は人生最大のショッキングな出来事であった。
2021年は健康に気を付けながら家内の分まで長生きをしようと思っている。過去を振り返らず前を見据えてささやかな夢をもって生きていこう。