開設:2005.3.22.                                                 

令和3年2月

■2月1日(月曜日)晴れ

(霜が降りて寒々しい我が家)
やっと1月が終わった。家内の49日法要が終わって一区切りついたはずなのだが、半世紀一緒にいた記憶は消し難く、唯々、侘びしい。こんな気持ちがいつまで続くのか私にはわからない。息苦しいこの時が早く過ぎ去ってほしいと思っている。
昨日、中学時代の同級生が来てくれたのだが、考え方にずれがあり話がかみ合わない。憐みの同情はお断りだ!
我が家のトイレはかぎがかからないので大勢の人たちが集まった時に困るので、

(マウスポインタを写真の上にもっていくと「未使用」写真が表示されます)
「使用中」と「未使用」を表示するプレートをつけた。ここでちょっと日本語がおかしいとお気づきでしょう。普通であれば「使用中」と「空き」になるはずですが、中国から輸入したものですから「空き」でなく「未使用」になってしまったのです。
久しぶりに買い物、総菜コーナーに行ったら家内が好きだった恵方巻を売っていた。今日はこれを買って、家内に食べてもらうことにした。

一人寂しく恵方巻、また酒が進みそうである。

■2月2日(火曜日)晴れ
Mクリニックの定期健診の日、 薬だけもらうことにしよう。

(今日もらった薬、爺は薬で生かされている。なんと9種類なり)
この中に認知症を促進させる睡眠導入剤が含まれている。家内の認知症が悪化したのも睡眠導入剤のためだろうと思っている。できるだけ飲まぬようにして自然に任せている。宮原クリニックは家内の病気が重症化したとき、面倒を見るどころか、突っぱねられてしまった。そして何の役にも立たなかった。そんな医者を眼のあたりにして、老後のかかりつけ医は慎重に選ぶべきだとつくづく感じたのです。
しかし、田舎では高齢になって車の運転がまま成らなくなったら医者の選びようがないのが現状、医者までは歩いて40分、スーパーまでは歩いて1時間、高齢者にとっては陸の孤島となってしまうのである。今どうしようかと悩んでいる。
夕食の準備をしていたら中学の同級生から電話、いろいろ話の中で妻を思い出したらその都度仏壇に「〇〇、思い出しちゃったよ、素晴らしい思い出をありがとう!」と言いながらお線香をあげて見たらと言われた。彼は3年間実行したという。その彼は離婚された娘さんとお孫さん3人で暮らしているから一人暮らしの寂しさを経験していないようだ。しかし、心許せる友は本当のありがたい。

■2月3日(水曜日)晴れ
昨夜は,LineVideo電話で二人の孫と話し、家内の妹の旦那さんとも話し、お陰様で7時間も寝てしまった。多くの人たちに励まされながら生きている。
今日は節分、豆を買ってきてあるので、豆まきでもするか?

昔、我が家では中学のころから私が豆まきをしてきた。親父は何もしない人だったから、大きな作業はほとんど私がやってきたのである。「福は~~内!福は~~内!、鬼は~~外!」
当時はスーパーマーケットなんてなかったから、自分の家で作った大豆を土間のカマドで薪を燃やしながらホウロクでおふくろが炒ってその豆をまいたのだ。いや~懐かしい思い出である。
最近、物忘れが多くなってきた、瞬間湯沸器の種火の消し忘れ、トイレの電灯の消し忘れ、認知症の初期の様相を呈してきた。十分注意しよう。かかりつけ医を認知症専門医田中医院さんに変更しようかと考え始めた。

■2月4日(木曜日)晴れ
昨日は高校の同窓生で熊連協会長を10年も引き受けてくれた友人の告別式であった。熊連協で喧嘩しながらホームページを立ち上げたのも懐かしい思い出になってしまった。
「長い間ご苦労様でした。安らかにお休みください!」
「俺はもう一寸こちらで頑張るから待っててくれ!ありがとう」と心の中で言いながら合掌した。
午後、JAふかや川本支店へ家内の葬儀代金、49日法要代金を支払いにいった。これで家内の葬儀に関してはすべて終わった。
夕方、 お世話になった熊連協会長Nさんが亡くなったので、昔、ホームページを立ち上げたときの広報部長だったYさんや広報部員だったYさんに久しぶりに電話する。お二人ともお元気でご活躍のご様子で一安心。話の中で3人で飲もうということになって、10日、午後5時から熊谷で飲むことになった。コロナの問題もあるのだが、家に引きこもっても気が重くなるだけ、大いに飲んで話そうと思っている。
やはり、心許せる友はいいものだ。

■2月5日(金曜日)晴れ
昨日はあちこち用足したので疲れて9時にに寝てしまった、そのため12時半に眼が覚めてしまい、家内のことを思い出しますます寝られず、先日友人がら言われた「奥さんを思い出したら仏壇にお線香をあげるのさ!」を思い出し、仏壇に向かって「ごめんな!こんな時間に起こしてしまって ありがとう」と話しかけながらお線香をあげた。
家内が亡くなったころは全く食欲がなかったが最近は食欲が出てきた。今日の昼食、

野菜をいっぱいとることと、魚、肉、加工食品、とローテーションを組んで食べるようにしている。PAL生協になってセット物が手軽にできてまたおいしい。先日のカキのみそ鍋は最高だった。生きるために一生懸命作って一生懸命食べよう。それが亡くなった家内への恩返しだと思っている。

■2月6日(土曜日)晴れ
天気予報では今日はかなり暖かくなるという、老体にとってはありがたい。今になってつくづく思うのは家内からもっといろんなことを聞いておけばよかったと思う。例えばミシンの使い方やアイロン掛け方などである。そして、家内は働きながらきめ細かく家の家事を良くこなして来たと感心している。

■2月7日(日曜日)晴れ
今日から朝ご飯と昼ご飯はクロワッサンにした。先々週のPAL生協の注文時単位を間違えて注文してしまったのである。1ケース10個入りが届いてしまった。賞味期限が3月17日まであるので少しづつ食べることにした。慎重に!慎重に!

昨日から遺言を書き始めた、私が死んだら僅かな財産だが子供たちの渡さなければならない。家内が死んで何をどうすればよいか判らず大変だったので、相続とともに諸手続きにもふれておこうと思っている。遺言を書いているともう私の人生も終わったなという感情が沸いてくる。
午後、久しぶりに散歩、いつものコースにある植松グラウンドで寄居町の硬式少年野球クラブが練習していた。いつかこの中から未来のマー君が出てくるかもしれない。

歩行もままならぬ爺と違ってボールのように体が弾んでる。ヒットを打って2塁ベースに滑り込む速さは信じられぬような速さだ!
昔、野村監督が「札束はグランドに落ちている、掴むのも掴まないのも君たち次第だ!」と言ったそうだが、そんな凄まじい実力の世界に少年たちは耐えられるのだろうか?、ご両親の期待の重圧に押しつぶされなければ良いのだが・・・・・・

■2月8日(月曜日)晴れ
今日で家内が亡くなって2か月、何と長かったことか!、毎日毎日、夜中の2時3時に起きてしまって、夜が過ぎるのが怖かった。最近は少し情緒が安定しやや収まってきている。
家内を思い出したらすぐ線香を上げることにしたのがよかったのかもしれない。
今日の昼食

一人食事にもだいぶ慣れてきたが、やはり介護中の「いらない!いらない!」と言う家内の声が耳に残っていて、食べながら思い出し、その都度お線香をあげている。
最近は作る楽しさが戻ってきた。おかずを作りすぎる傾向にあり食べすぎが心配だが、このおかずを翌日の朝と昼まで食つなぐようにしている。お~~い純子戻ってきておいしいとほめてくれ!

■2月9日(火曜日)晴れ
昨日からまた寒さが戻ってきた。この寒暖差には厚着をしてやり過ごそう。
一人暮らしだから、病気になることを一番注意しなければならない。死んで誰も気が付かず、何週間も放置なんてことになったら、死んでも死にきれない。私はそんなことが無いよう、「しっかり食べること、しっかり寝ること、しっかり歩くこと」を守って生きることにした。
日本中には65歳以上の一人暮らしの人が7百万人もいると言う安否確認のシステムを国は考えるべきだろう。
以前、民生委員をしてた頃、一人暮らしの老人の自殺に直面し、市長に「一人暮らし老人の家庭の冷蔵庫にセンサーを付けて電話回線で見守り、一日一度も開けなかったら町の職員が訪問することを検討したらどうか?」と話をしたことがあった。しかし、市長が脳梗塞で亡くなって話は立消えになってしまった。

■2月10日(水曜日)晴れ
彩の国いきがい大学熊連協旧広報部の人たちと飲み会の予定だったが1人が体調を崩して延期となってしまった。やはり高齢になるといつ何が起こるか分らないととつくづく思う。
昨日、裏の竹林を何十年も整備してないので暖かくなったら始めようとリョウビのバッテリーチェンソーを購入した。


これで直径4Cmくらいの竹はらくらく切れるだろう。。
久しぶりに散歩、7,000歩歩くもすごく疲れてしまった。なぜなのだろうか?、体調が悪いわけではないが心臓や筋肉の力がかなり落ちているようだ。距離を短くして様子を見よう。

■2月11日(木曜日)晴れ
昨日、しゃがみこんで2本の木を伐採しただけで腰痛が起きてしまった。気持ちは前向きだが身体が付いていかないことをつくづく感じたしだいである。無理せずぼちぼち行くことにした。
今朝、湿布薬を張り、食後K整形外科にもらった痛み止めを飲んで様子を見ることにした。収まらなければ明日くろや整形外科に行って電気にかかろう。
午後になって、湿布薬と飲み薬のおかげで腰痛が収まって一安心。これからは身の程をわきまええよう。

■2月12日(金曜日)曇り
全く予定なし! 深谷市の新型コロナウイルスの第3波の猛威がやや収まりつつあるようだ。ワクチンの接種が早く爺の順番が来てほしいものだ。。
朝食

婆ちゃんの大好きだったぶり大根の煮つけ(昨日の残り)とレタスのオリーブオイルかけ、玉ねぎの煮つけ(昨日の残り)で朝食。ずっと続けているレタスのオリーブオイルかけは血管を補強してくれるらしい。以前どこかのTVでイタリアではオリーブオイルを消費する量が多いので肥満がいっぱいいるが脳梗塞になる人は少ないと言っていたのでオリーブオイルを食すようになった。これが高血圧対策になればとせっせと食している。
昼食

大量に作ってしまったブり大根を3回も食べる羽目になってしまった。
「お~~い!婆ちゃん戻ってきてぶり大根お腹いっぱい食べてくれ!」
夕食」

どう見ても作りすぎの感あり、慎重に食する量を考えて作るべきなのだが・・・・・、注文の難しさをつくづく感じている。

■2月13日(土曜日)曇りのち晴れ
今朝、2時に起きてしまった。なぜ睡眠に波があるのかわからない、9時間寝れる日もあれば4時間しか眠れない日もある。人間の身体は眠い時は眠れるのだとさじを投げ、あまり考えないことにした。
ほんと今日は暖かい。老人にとっては助かる。春がもうすぐそこまで来ている。
午後、いつものコース散歩、相変わらず寄居少年硬式野球クラブが練習していた。いつ見ても若者は素晴らしい。戻れるなら爺も戻って走り回りたい。帰り道植松グランドの荒れ放題に地方自治体の予算不足を感じた次第である。

十数年前くらいは管理が行き届き素晴らしいさくら並木であったが今はその面影さえない。
中学の同級生HKさんから電話、ご飯食べてるか、等々の激励と励ましの言葉、やはり竹馬の友はありがたい。話の中で高校の同窓生のTO氏の話が出て、楽しかった高校時代を振り返った。

■2月14日(日曜日)晴れ
家内が亡くなって、主不在のピアノが応接間に鎮座している。

応接間で仕事をしていると思い出してしまうので、家内が通っていたピアノの先生のお弟子さんでピアノを持っていない方にプレゼントすることにした。きっと家内も草葉の陰で賛成してくれると思っている。長女や長男に話したら賛成で実行することにした。
TVを見ていたら、今日はバレンタインデーだと知った。毎年家内から素敵なチョコをもらっておいしく頂いていたが今年は誰からもチョコが来ずわびしいバレンタインデーになってしまった。
昨日、中学の同級生の電話で話題に出たTO氏に65年ぶりに電話してみた。最初は何が何やら判らぬようだったが、話が進むうちにおぼろげに思い出してくれたようであった。やはり竹馬の友は何年もご無沙汰してもあっという間に距離を縮めてくれるように思う。

■2月15日(月曜日)大雨のち曇り時々晴れ
久しぶりに雨、朝からやることもなくただぼ~~として時の流れに流されている。

家内が作った朝顔の竿に水滴がたまっていた。毎年きれいな花を咲かせてくれた朝顔今年はどうしようか、やはり家内の夢を引きついで種を蒔こう。きっと家内もそう願ってるに違いない。
「大輪で素晴らしい朝顔を咲かせるから待っててくれ!」

■2月16日(火曜日)晴れ
朝一、JA直売所に買い物。お仏壇に供える新鮮な花束を購入。スーパーで買ったものより、地元の農家の方が昨日取った花なので日持ちが全く違うのである。

これでお花の大好きだった家内への感謝の気持ち。
午後、この地域の民生委員Sさんが来てくれた。私の情報を冷蔵庫の中に入れるようになったらしい。なぜ冷蔵庫なのか?理解に苦しむ。
今日の夕食献立

PAL生協のカマスの開き、これは美味、ほとんど塩分もなくお醤油をかけて食べる程である。

■2月17日(水曜日)晴れ
今日は彩の国いきがい大学の友人が来てくれると連絡があった。みんな私の心配をしてくれるのだからありがたい限りである。多くの人たちに支えられ励まされて私は生きながらえている。なぜか昨夜はほとんど寝られず、困った。

■2月18日(木曜日)晴れ
昨日あまり寝られなかった反動で8時間爆睡して起きたのが7時を回っていた。やはり人間の体は良く出来ている物だと感心している。老人の気の病で不眠症と思ってるだけに過ぎない。
またもや腰痛が出てしまった。

朝仏壇にお線香を挙げながら治るようにお願いした、今日はくろや整形外科はお休みなので明日行ってみよう。
午後になっても腰痛は治らず、シップを張って痛み止めを飲んでいるのに右足にしびれを感じ、ますます悪化の様相を呈してきた。 何もしないのになぜなったのか全くわからない。 83年も使ってきた身体あちこちが対応年数を超えてしまったようだ!

■2月19日(金曜日)晴れ
腰痛で苦しんでたのがウソのように引き、少し様子を見ることにした。ちょっとした身体のひねりで起きるように思う。自分では若い気持ちでいるが・・・・・・・・・・

■2月20日(土曜日)晴れ
家内が亡くなって困ってることがいっぱいあることに気が付きもっと聞いておけばよかったと反省しきりである。敷布を洗濯して新しい敷布を探したのだがどこにあるかわからないのには困った。押入れやタンスをひっかきまわしやっと探し当てる始末。
「お母さん帰ってきていろいろ爺ちゃんに教えてくれ!」と仏壇にお線香を上げた。
未だ家内の衣服を整理できないでいる。一つ一つ見るとその記憶がよみがえり捨てられないのである。本当にだらしない男である。
家内の介護でとんと忘れていたパチンコへ何年ぶりに出かけた。以前はエキサイトしながら打っていたが、今回マイジャグラーを打ってみたのだが少しも面白くない。
つまらぬ日常生活をしてると、どんな遊びをしても面白くないのかもしれない。遊びは充実した生活の上に楽しさが沸くのもなのだろう。
新型コロナウイルス感染症の第3波の影響でパチンコ屋もガラガラで赤字経営だろう。それと出玉規制で客の減少が止まらぬようである。


■2月21日(日曜日)晴れ
いよいよ、暖かくなり我が家も雑草との戦いが始まります。昔は1日で800坪の庭を草刈りをしたが、今では4日もかかってしまう。

(ぽかぽか陽気で梅の花が満開、春はもうすぐそこまで来ている)
近所の家を見るときれいにしていて、我が家だけお化け屋敷のようになってしまう。
彩の国いきがい大学の友人のよれば
「いくら草が伸びても死にはしないよ!、炎天下草刈りなんかしたら死んでしまうよ!」
と言うのだが、比較してはいけないが近所に迷惑をかけてしまうような気がしてしまうのである。
今年は自分の身体が思うように動かなければ深谷市人材センターにお願いしよう。

■2月22日(月曜日)晴れ
朝から快晴、今日も暖かくなりそうだ!散歩でもしようか!
朝一でK整形外科医院へ腰を見てもらう、骨に異常はなく筋肉の痛みとのことリハビリを続ければ治りそうだ。ここにきて腰を傷め、眼もピントが合わず、足も弱って歩行も難儀してる状態、参った!
K整形外科医院は家内が3年間リハビリで週3回通院していたので座る位置が決まっていた。無意識にその椅子へ眼が行ってしまう。まだまだ記憶が消えそうにない

■2月23日(火曜日)晴れ
長男一家が全員で来てくれた。いつもは一人でし~んとしてる我が家が、ピアノを引くやらゲームをするやら盆と正月が一緒に来たような状態になってひさしぶりにうれしい限りなり。

お土産に家内が大好きだった崎陽軒のシュウマイを頂いた。明日でも蒸して家内の墓前にあげよう。

■2月24日(水曜日)晴れ
本日予定なし、深谷市の新型コロナウイルス第3波も沈静化してきた。1昨昨日と1昨日と昨日は感染者0であった。このまま下火になってくれればいいのだが、まだまだ予断を許さない。
午後郵便物を取りに行くと澄み切った空に飛行機雲がたなびいていた。

きっと上海あたりから北米へ行く飛行機のものだろう。いつも上空で音がすると Flightrader24でどこからどこへ行く飛行機で航空会社はどこなのか調べて楽しんでいる。。
我が家の上空は中国から北米へ行く飛行機の通過するコースのようである。

■2月25日(木曜日)晴れ
家内が生きていれば54回目の結婚記念日になる予定であったが、二人でケーキを食べながら祝うことが叶わぬ夢となってしまった。
そもそも私と家内の馴初めは私の勤務していた会社にKさん(家内)が入社してきたことから始まったのである、

(私とKさんが勤務していたK不動産株式会社)
私は不動産1課に所属、Kさんは常務の秘書として働き始めたのである。しっかり者で、気が強く、仕事をてきぱきこなすので常務のお気に入りであった。
ある日、常務と外出した時、常務が
「秘書のK君をそろそろお嫁にやらなければな!」
と私に言ったのです。私は
「あんなに気の強いKさんを貰う人なんかいませんよ!」
と言ったのを記憶している。そんなKさんと私が結婚するとはその時は思ってもいませんでした。
そもそも、Kさんを意識するようになったのは、会社で千葉に社内慰安旅行があった時、旅行の2日目に朝食を済ませてS氏(のちに永平寺監院になった人物)と私で旅行予定とは別に電車で帰ってしまったのです。その翌日出社するとS先輩からKさんが
「最高学府出たのに勝手に団体行動を乱すとは人格を疑うわ!」
とただ1人憤慨していたと教えてくれて、
「きっとお前に気があるんだよ」
と言ったのです。
そこでKさんに
「慰安旅行の時は失礼しました。お詫びにお茶でも飲みませんか?」
と誘い、そこから付き合いが始まったのです。
そして、翌年の社内慰安旅行のバスの中で全員が手を重ね鬼になった者が上からたたくゲームをしたのですが、いつもKさんと私の手が当ってしまい、周りからヤンヤヤンヤとはやし立てられたのを記憶しています。
夕食後、小雨煙る湯檜曽の街を逢い会い傘で散歩したのが結婚を意識した最初でした。その時、結婚の申し込みをしたかどうかは記憶にないのです。
当時、Kさんは中央線の小金井、私は中野に下宿していて会社へ行く時中央線の乗るダイヤと車両を決めて一緒に東京駅まで行き、馬場先門前の会社まで遠回りをして出勤していたのです。

(私とKさんが通勤時遠回りをした道順)
そして、とんとん拍子に話が進み昭和42年2月25日に上野の東天紅で結婚式を挙げたのです。
当日、私は寝すぎてしまって遅刻、「花婿が来ない」と大騒動になっていました。今思えば、人生最大の失態であった。

(初々しい緊張した家内)

(人生初のウエディングケーキ入刀、緊張してます。)


(かなり緊張しています)       (近鉄賢島駅前にて)
新婚旅行は南紀白浜でした。
新幹線の中で大阪に向かう途中、10年後には〇〇をしよう、20年後には△△をしよう、30年後には✕✕をしよう、40年後には※※しよう、と十年区切りの夢を語ったように記憶しているが夢がなんであったかは今となっては思出せないでいる。
そして、小金井市貫井南町で新婚生活をスタートさせたのです。42年に長女、46年に長男を授かりました。44年に日本住宅公団のひばりが丘団地に当選し小金井から移り住んだのです。

(入居したひばりが丘団地)
ところが家内が長男妊娠時、私はある女性と深い関係になってしまったのです。無断外泊や無断旅行を頻繁にしていました。しかし長男の出産を機に家庭を壊してはいけないとその女性と別れたのです。その後、家内は亡くなるまで一度もそのことを口にして私を責める事はなかったのです。これには土下座して詫びても足らないと今でも思っています。
親父が体調を崩したのを機会に、実家に帰えり、私は近くの企業に転職し、転職した企業が大手企業に買収され苦労の連続でしたが、食うためにこらえながら定年まで過ごしたのです。
そして、家内は親父とうまくいかずかなり苦労をしていましたが、私の両親の悪口を一切言わず、頑固な親父を見取り、口煩いお袋を見取ってってくれたのです。
その後、2人で日本中を旅し楽しい日々を過ごしてきましたが、家内は糖尿病と認知症の悪化で食べ物が入らなくなり、点滴で命をつないできましたが、肺に水が溜まり三分の一しか機能せず、ついに令和2年12月8日力尽きたのです。

(亡くなる半年前の写真)
写真を見ていると、何か私に訴えているように感じ、いつも涙するのです。
死ぬ直前まで、日本中を旅してまわったのを記憶していて自分の兄弟の中では一番幸せだと口癖のように言っていました。

(利尻島礼文島を周遊した時の稚内の本州最北端記念碑の前で)
幻の結婚記念日となってしまったが、53年間愚痴ひとつ言わず尽くしてくれた家内にありがとうと感謝の気持ちでいっぱいです。
「2人の子供と5人の孫たちに囲まれ、素晴らしい人生だったね! お母さんがいなくても1人で結婚記念日を祝うから天国から参加してくれ!」
夕食はスーパーの安い握り寿司で一人結婚記念日晩さん会、

飲めば飲むほど虚しくなってしまう。仏壇にお線香をあげて「かえって来いよ!」と叫びたい心境なり。

■2月26日(金曜日)曇り
朝4時、朝から洗濯、今日はPAL生協さんの配達日。おいしいものが食べられそうである。
先日、65年ぶりに電話した高校の同窓生のTO氏から、家内にお香を頂いた。素晴らしい達筆で私を思い出した経過や家内への弔文が記載されていて、読んでいくうちに涙が止まらなくなってしまった。
TO氏の手紙の報告をしながら仏壇にお線香をあげた。
「ありがとうTOさん!65年間のご無沙汰お許しください。これから死ぬまでお付き合いよろしくお願いします」

■2月27日(土曜日)晴れ
家内が亡くなって49日法要が過ぎたころから仏具を少しづつ新しいものに買い替えている。

しかし古いものは亡くなったご先祖さんが買い揃えたものなので捨てるのは忍びないので大事に梱包してしまうことにした。
今日は常花一対がお仏壇のハセガワから来る。ご本尊の両脇に並べることにしている。

■2月28日(日曜日)晴れ
2月も今日で終わり、一人暮らしになって約3か月が過ぎたが未だに家内がいて旅行に出てるような感覚、困ったものだ。
最近、ストレスなのかどうかは判らぬがショッピングづいている。先日PAL生協さんから「トイレカバーを購入してしまった。取り付けてみると結構見栄えがする。こうなると毎日トイレ掃除をするようになってしまった。これも良い習慣と自分自身悦に入っている。
応接間の棚が物置のようになって乱雑に積み重ねてあったのを何年振りかできれいにした。
やはり気持ちがいい。明日はないを整理しようかと考えている。